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上坂冬子『我は苦難の道を行く——汪兆銘の真実』,講談社,1999年10月。
睡不zhuo 瞎翻 短小 附了原文醒来捉虫
前文 第一弹
转载译文须经我同意
下卷 第十四章 “选择在狱中死去的汪兆铭夫人”
p177
……譚文亮は1921年(大正十年)生まれというのが信じられないほど血色のいい紳士で、口数は少なかったが、その日陳壁君の形見の懐中時計を持参していた。彼によれば白金製でブランドはモヴァドとのことだが、うやうやしく裏蓋を開けるとそこに「一片冰心在玉壺 民國一八年九月九日」と汪兆銘の字で彫ってある。王昌齡の詠んだ「一片氷心在玉壺 」をもじったもので、氷が冰になっているのは、陳壁君の字があ冰如だったからだ。汪兆銘は玉の壺の中の氷のような澄んだ心を妻に捧げるつもりだったのであろう。民国十八年(1929年)の重陽の節句といえば、汪兆銘が反○と同時に反蒋介石のための行動をもおこして、いずれも思うように運ばず心晴れない日々だったころである。
……谭文亮出生于1921年(大正十年),是一位气色好得令人吃惊的绅士。他的话不多,不过那天他带来了陈壁君遗物中的一只怀表。据他说,这是白金制造,摩凡陀(movado)牌,他恭敬地打开后盖,只见上面刻着“一片冰心在玉壶 民国一八年九月九日”与汪兆铭的字。这是仿王昌龄的诗句“一片氷心在玉壶”,“氷”之所以写成“冰”,是因为陈壁君的字是“冰如”。汪兆铭是想要把玉壶中那颗如冰般清澈的心献给妻子吧。而说到民国十八年(1929年)的重阳,那正是汪兆铭反g反蒋的行动均受挫折,心情不甚畅快的日子。
【*注:字(あざな)泛指各种字or号,作者没配图。按他那些写给老婆的字画的落款推测,应该也是“精卫”吧
王昌龄原句就是“冰”,因为日本汉字中“冰”都是写作“氷”的,所以作者有点小误会
怀表来自陈的狱中遗物,陈去世后,狱方将这些遗物交由谭文亮接收。谭文亮是汪文婴妻子谭文素的弟弟,早先在上海,后来去了澳洲。】
附一个本章结尾
……問わず語りにこれだけ話し終えると何文傑は、陳壁君が死の床で「もうすぐ私はここから出られる」といっていたという記事に関して、
「身内としては……」といって一旦息を止め、
「記事の掲載された雑誌を放り投げたい思いでした」と一息にいって口をつぐんだ。
彼の口調が乱れ、捨て鉢なひびきとなったのは後にも先にもこの一回のみである。
……不问自答地,何文杰只说到这里。关于记载了陈壁君在临终时说“我马上就能离开这里了”的报道文章,他说:
“作为亲人……”说着,他暂时屏住了呼吸,
“我当时想把登着文章的杂志扔出去。”一口气说完之后,他沉默了。
他的语调失去平静,变得自暴自弃,自始至终只有这一次。
【注:相关记事参见 冰如人生中最後的光陰】
评论区: 汐回: 我觉得是太悲痛了接受不了吧,最后还是没有活着出去 [2020-04-23 18:38:32]
是几时孟光接了梁鸿案: 为什么想把杂志扔出去呀,是冰如不会说那句话吗 [2020-04-23 16:17:22]
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上坂冬子『我は苦難の道を行く——汪兆銘の真実』,講談社,1999年10月。
睡不zhuo 瞎翻 短小 附了原文醒来捉虫
前文 第一弹
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下卷 第十四章 “选择在狱中死去的汪兆铭夫人”
p177
……譚文亮は1921年(大正十年)生まれというのが信じられないほど血色のいい紳士で、口数は少なかったが、その日陳壁君の形見の懐中時計を持参していた。彼によれば白金製でブランドはモヴァドとのことだが、うやうやしく裏蓋を開けるとそこに「一片冰心在玉壺 民國一八年九月九日」と汪兆銘の字で彫ってある。王昌齡の詠んだ「一片氷心在玉壺 」をもじったもので、氷が冰になっているのは、陳壁君の字があ冰如だったからだ。汪兆銘は玉の壺の中の氷のような澄んだ心を妻に捧げるつもりだったのであろう。民国十八年(1929年)の重陽の節句といえば、汪兆銘が反○と同時に反蒋介石のための行動をもおこして、いずれも思うように運ばず心晴れない日々だったころである。
……谭文亮出生于1921年(大正十年),是一位气色好得令人吃惊的绅士。他的话不多,不过那天他带来了陈壁君遗物中的一只怀表。据他说,这是白金制造,摩凡陀(movado)牌,他恭敬地打开后盖,只见上面刻着“一片冰心在玉壶 民国一八年九月九日”与汪兆铭的字。这是仿王昌龄的诗句“一片氷心在玉壶”,“氷”之所以写成“冰”,是因为陈壁君的字是“冰如”。汪兆铭是想要把玉壶中那颗如冰般清澈的心献给妻子吧。而说到民国十八年(1929年)的重阳,那正是汪兆铭反g反蒋的行动均受挫折,心情不甚畅快的日子。
【*注:字(あざな)泛指各种字or号,作者没配图。按他那些写给老婆的字画的落款推测,应该也是“精卫”吧
王昌龄原句就是“冰”,因为日本汉字中“冰”都是写作“氷”的,所以作者有点小误会
怀表来自陈的狱中遗物,陈去世后,狱方将这些遗物交由谭文亮接收。谭文亮是汪文婴妻子谭文素的弟弟,早先在上海,后来去了澳洲。】
附一个本章结尾
……問わず語りにこれだけ話し終えると何文傑は、陳壁君が死の床で「もうすぐ私はここから出られる」といっていたという記事に関して、
「身内としては……」といって一旦息を止め、
「記事の掲載された雑誌を放り投げたい思いでした」と一息にいって口をつぐんだ。
彼の口調が乱れ、捨て鉢なひびきとなったのは後にも先にもこの一回のみである。
……不问自答地,何文杰只说到这里。关于记载了陈壁君在临终时说“我马上就能离开这里了”的报道文章,他说:
“作为亲人……”说着,他暂时屏住了呼吸,
“我当时想把登着文章的杂志扔出去。”一口气说完之后,他沉默了。
他的语调失去平静,变得自暴自弃,自始至终只有这一次。
【注:相关记事参见 冰如人生中最後的光陰】
评论区: 汐回: 我觉得是太悲痛了接受不了吧,最后还是没有活着出去 [2020-04-23 18:38:32]
是几时孟光接了梁鸿案: 为什么想把杂志扔出去呀,是冰如不会说那句话吗 [2020-04-23 16:17:22]