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吾輩は猫である #72

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吾輩は猫である。名前はまだない。 どこで生まれたのかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗い薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかも後で聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえて煮て食うという話である。しかしその当時はなんという考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。ただ彼の手のひらに乗せられてスーと持ち上げられた時なんだかフワフワした感じがあったばかりである。 手のひらの上で少し落ち着いて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬罐だ。その後猫にもだいぶあったがこんな片輪には一度も出会したことがない。のみならず顔の真ん中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうもむせっぽくてじつに弱った。これが人間の飲む煙草というものであることをようやくこのごろ知った。

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この書生の手のひらのうちでしばらくはよい心地にすわっておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのかわからないがむやみに目が回る。胸が悪くなる。とうてい助からないと思っていると、どさりと音がして目から火が出た。それまでは記憶しているがあとはなんのことやらいくら考え出そうとしてもわからない。 ふと気がついてみると書生はいない。たくさんおった兄弟が一匹も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までのところとは違ってむやみに明るい。目を明けいていられぬくらいだ。はてなんでも様子がおかしいと、のそのそはい出してみると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ捨てられたのである。

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ようやくの思いで笹原をはい出すと向こうに大きな池がある。吾輩は池の前に座ってどうしたらよかろうと考えてみた。べつにこれという分別もでない。しばらくして泣いたら書生がまた迎にきてくれるかと考えついた。ニャー、ニャーと試みにやってみたが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減ってきた。泣きたくても声が出ない。しかたがない、なんでもよいから食い物のある所まで歩こうと決心をしてそろりそろりと池を左に回り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりにはって行くとようやくのことでなんとなく人間臭い所へ出た。ここへはいったら、どうにかなると思って竹垣のくずれた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかもしれんのである。一樹の陰とはよく言ったものだ。

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この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問するときの通路となっている。さて屋敷へは忍び込んだもののこれから先どうしていいかわからない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降ってくるという始末でもう一刻も猶予ができなくなった。その時はすでに家の内にはいっておったのだ。ここで吾輩はかの書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一にあったのがおさんである。これは前の書生よりいっそういっそう乱暴な乱暴なほうで吾輩を見るや否やいきなり首筋をつかんで表へほうり出した。いやこれはダメだと思ったから思ったから目をねぶって運を天に任せていた。

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しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん。吾輩は再びおさんのすきを見て台所へはい上がった。するとまもなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されてははい上がり、はい上がっては投げ出され、なんでも同じことを四、五へん繰り返したのを記憶している。その時におさんというものはつくづく嫌になった。このあいだおさんのさんまを盗んでこの返報をしてやってから、やっと胸のつかえがおりた。吾輩が最後に摘み出されようとした時に、この家の主人が騒々しいなんだと言いながら出てきた。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿無しの子猫がいくら出しても出してもお台所へ上がってきて困りますと言う。主人は鼻の下の黒い毛をひねりながら吾輩の顔をしばらくながめておったが、やがてそんなら内へおいてやれと言ったまま奥へは行ってしまった。